研究室だより - 広井研究室
1.はじめに
1998年12月、物性研に着任してから早10年が過ぎ去ろうとしている。六本木から柏への本格移転まで1年余となっていた時期であった。六本木での短い生活は私にとって、研究室立ち上げに伴う困難や偉い先生方に囲まれて大変なところに来てしまったという後悔の中で大変しんどいものであった。やけくそで青山墓地を走り回ったり、六本木の住人になったつもりで真夜中にぶらっと飲みに行ったりして気を紛らわしているうちに、研究らしいことは何もせずに過ごしてしまうことになった。しかし、ここで落ち込んで悩みまくったことで、自分に何ができて何ができないかということ、何をやるべきかということが少し分かってきたように思う。「人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べる」のである。
移転直前に村岡氏が助手として着任し、柏キャンパスの真新しい建物に入って学生さんも2人に増えたことで気分は一新された。六本木に長くおられた先生方とは違って、私にとって柏は「祝福された大地」に見えた。チグリス・ユーフラテス川の三角州で栄えたメソポタミア文明のように、江戸川と利根川に挟まれた柏は新たな文明の発祥地になる、というシュールなジョークも囁かれたが、少なくとも何か新しいことにチャレンジできそうな予感があった。その後8年の時の流れの中で、多くの若い人達と一緒に何を考え、何をやってきたかをここに記したいと思う。せっかくの機会なので好き勝手に言いたい放題、少々羽目を外して(いつもそうだが)書こうと思うのでしばしの間お付き合い願いたい。
2.人
大学での研究における生命線は学生である。最近、特にこのことを強く感じる。われわれは毎年、確実に歳を取っていくが、学生さんは常に新入し卒業していく。この新陳代謝こそが新しいものを生み出す原動力であろう。
表1 研究室構成メンバーの推移
表1にこれまで研究室に在籍した人達の流れを示した。最初の3名は理学部化学研究科の学生であり、その後は全て新領域創成科学研究科物質系専攻の学生である。柏キャンパスで新領域が順調に立ち上がった結果、学生数も増え現在では博士課程2名、修士課程3名の学生が在籍し、研究室の規模としては程よいものとなっている。
スタッフでは初代助手の村岡氏が2006年4月より岡山大学の准教授としてめでたく転出し、代わって新領域高木研を卒業した岡本氏が現在2代目の助教として頑張っている。さらに、物質設計評価施設X線測定室の助教である山浦氏が準メンバーとして研究に参加している。その他、計3名のPDと歴代の秘書さんが研究室を盛り上げてくれてきた。
3.研究
新物質探索
当研究室の第1の存在意義は新物質探索にある。固体化学的な手法とアイデアを駆使して固体物理的に面白いものを探すことを「国是」としている。物質開発という言葉はあまり好きではない。我々は常に自然に対して謙虚であらねばならぬと思う。あくまでも自然が与えてくれる物を探してくるのである。長年、物質探索をやってきて思うことは、物質屋は扱う物質によって育てられるものであるということだ。スピン系をやればスピンのことを勉強しなければならず、超伝導にぶち当たると流れる電子をイメージしなくてはならない。もちろん、読むべき教科書も違ってくる。物理音痴のえせ化学屋(決して謙遜ではない)には少々しんどい話であるが、実際に物を手にするとmotivationが違うので結構、頑張ることができる。できれば常に最先端を行くような物質探索を行いたいと常日頃から思っているが、もちろんうまくいく場合もあれば、いかない場合もある。以下にこれまで扱ってきた物質を簡単に眺めてみたい。
柏への移転を機にあらたに始めたのが一連のパイロクロア酸化物に関する研究であった(図1)。幸いなことに、最初の学生である花輪君が新しい超伝導体Cd2Re2O7を発見し、これがその後の米澤君によるβパイロクロア酸化物AOs2O6へとつながっていく。前者は30年前に報告されていた物質のリバイバルだったのに対し、後者が全くの新物質であったことはほんとうにラッキーであった。長い歴史をもつ遷移金属酸化物の研究において、真に新しい物質に出会える機会は希である。この新物質に名前を付けるにあたって、「ヨネクロア」という案も出されたが、誰も使ってくれないと困るのでオーソドックスなβとなった。当時、米澤君が作ったKOs2O6の1mm程度の大きな単結晶K-729(図2、作った後にほってあったのを山浦氏が保存してくれていた)は、強結合超伝導やラットリングとそれに絡んだ相転移の研究に大いに役立った。その後の山浦氏、長尾君の努力にもかかわらず、このような大きさの良質な結晶は得られていない。「米澤マジック」と呼ばれた彼の合成手法は今や伝説となっている。ただ、経験的に分かってきたことは、ちゃんと条件を押さえ(たつもりで)丁寧に合成しようとすればするほどできないことである(実験にはよくあることだが)。米澤マジックのタネを探す努力は今でも続けられている。他のCs、Rb酸化物については長尾君の努力によって極めて良質な結晶が作られ(図2)、特にCsに関しては物材機構の寺嶋氏によりドハース・ファンアルフェン効果の観測も行われた。βパイロクロア酸化物に関する研究は現在、山浦氏と小楠君により引き継がれており、さらに面白い物理が見え始めているが、書き出すと長くなるのでやめる。小楠君、でかい結晶をよろしく。一方、長尾君、岡本氏により次なるβパイロクロア酸化物CsW2O6についても研究が進行中であり、近いうちにどこかで発表されるだろう。
図1 パイロクロア酸化物Cd2Re2O7(左)とパイロクロア酸化物AOs2O6の結晶構造(右)。八面体はReO6またはOsO6を表す。青球はCd、水色球は酸素、緑球はアルカリ金属原子(Cs、Rb、K)を表す。
図2 米澤作KOs2O6単結晶K-729(左)と長尾作CsOs2O6単結晶(右)。どちらも1mm程度の大きさである。
もう一つの物質探索の柱はフラストレート系スピン化合物である。数年前までは研究会でスピン系の新しい物質の話をするたびに、ある北の方の大学のM先生から「それは電気が流れますか?」と質問されて(もちろんこんな質問をされるのは理論家である)、「いいえ」とお答えすると悲しそうな顔をされて落ち込んだものであった(もちろん私が)。しかし最近ではフラストレーションに関する川村特定領域研究が立ち上がったこともあり、以前よりは大手を振ってスピン系の話ができるようになったように感じる。と書きながら、ふと思い当たったのだが、パイロクロア超伝導の研究を始めたのもこのプレッシャーのお陰であった。M先生には心から感謝します。
図3 Ag2NiO2またはAg2MnO2の結晶構造(左)とvolborthiteのカゴメ格子(右)。左図の緑球はAg、赤球はNi/Mn、水色球は酸素原子。右図では赤い八面体の中心にあるCu2+イオンがスピン1/2を持って少し歪んだカゴメ格子を作る。緑色はカゴメ面を繋ぐV5+の柱である。
現在、スピン系の物質探索を行っているのは博士課程3年の吉田紘行君である。彼はシュツッツガルトのマックスプランク研究所のJansenグループが見つけた銀とニッケルの2次元酸化物Ag2NiO2(図3)に着目し、スピン1/2三角格子化合物として世に送り出した。さらに、これをきっかけとして2006年秋の3ヶ月をJansen教授の研究室で過ごした。そこで研究を始めた関連物質Ag2MnO2はスピン2の古典スピン三角格子系であり、カイラリティーの自由度に関係すると期待される相転移を見出した。その結果は近々JPSJに出版される。さらに最近では、スピン1/2カゴメ格子物質であるvolborthiteの良質試料作製に成功し、そのスピン液体的な基底状態に磁場誘起の量子相転移(?)が複数あることを発見した。これらの研究は榊原研、徳永研、金道研との共同研究の成果であり、近いうちに発表されるだろう。実際に何が起こっているのか不明であるが、なにやら面白いことが起こっているようである。今後の大いなる楽しみである。
化学をまじめに
新物質探索は確かに面白いが、いつも新しいものが転がっているわけではない。というか、真に新しいものに巡り会う機会は極めて希である。よって、既に見つけられた物質で我々にどのような寄与ができるかも考えなければならない。その一つの例がNaxCoO2である。この物質は水入りで超伝導になる変わり物であるが、水無しの物性もユニークで興味が持たれている。問題はNa組成をきちんと制御することが難しいこととNaの規則配列が物性に大きく影響することである。よって、善積君と西尾君は村岡氏、岡本氏とともに固体化学的な手法でNa量をきちんと制御した、かつ、規則配列化を押さえた試料を作った。最近の西尾君の結果では、xが0.62あたりで驚くべきことに0.001以下の組成変化で物性が劇的に変化することがわかった。これはNaxCoO2の特異なバンド構造を反映していると思われる。ちゃんとまじめに作れば、ちゃんと答えてくれる物質もある。バルクの物質だからこそできることでもある。
薄膜と光
柏移転を機に村岡氏を中心として新たに挑戦を始めたのが薄膜の仕事であった。誰にも知られていないが、実は私の博士論文のテーマは人工超格子薄膜であった(あまり思い出したくないが)。ふとした思いつきでまた薄膜を始めることになったが、幸いにも村岡氏が阪大でレーザーアブレーションによる薄膜作製の経験があり、VO2やV2O3を皮切りにMn、Cu、Sn酸化物や有機物薄膜にまで手を伸ばすこととなった。これらの仕事には米澤君、村松氏、山浦氏、田久保氏が参加している。特に後半の研究はpn接合形成を行い、紫外線照射による薄膜のキャリア濃度制御を目指したもの(光キャリア注入)となり、応用研究的な要素も含まれていて随分新しいことを勉強した(せざるを得なかった)。当時は結構興奮してみんなで頑張ったが、残念ながら期待ほどの成果は得られず、尻すぼみとなっている。
薄膜研究の難しさは絶対的に試料の量が少ないことにある。薄膜や界面は2次元であるのでこれはいかんともしがたい。量が少ないことは統計的な揺らぎを生み、試料作製の再現性を悪くする。また、評価方法の制限から、クリアーな結論を導くのにしばしば困難を伴う。パウリの言葉「固体は神の、表面は悪魔の創造物」をどのように解釈するかは自由だが、薄膜をテーマに与えられた学生はしんどいのである。もちろん、だからこそ面白いことが隠されていてやりがいがあるというべきなのだろう。
現在は鶴巻君がその超ユニークな個性を発揮してYBCO超薄膜の超伝導性について超越的な研究を行いつつある。STOの表面ステップに絡んだ面白い現象が見え始めているので今後の展開に期待したい。
スピノーダル工学
このようないい加減なネーミングをして始めた研究がVO2-TiO2系のスピノーダル分解に関する研究である。金属−絶縁体転移を示す強相関電子系のVO2とワイドギャップ半導体のTiO2を混ぜたら何が起こるか、である。ちなみにこの言葉をネットで検索するとうちのHPしか引っかからない(つまり誰も使っていない)。この研究はもともと上田寛研で行われたものであるが、速水君、吉田徹君の修士論文テーマとして引き継いだ。スピノーダル分解は初期宇宙から金属、酸化物、ソフトマターまで幅広い系において起こる一般的な相分離現象であり学問的にも興味深いが、これを何らかの応用に使えないかというのもちょっとした遊び心である。本年3月に卒業し、文科省に入った吉田君は大きな単結晶を作製し、スピノーダル分解に起因した電気抵抗の大きな異方性を見出したが、果たしてこれをどう売り出そうか思案中である。
極めて最近の話題、鉄砒素超伝導
2008年初めから大きな話題となっている鉄砒素超伝導体(図4)であるが、6月現在、世界中で加速度的に研究が進行している。細野氏の第一報から既に印刷された論文も多く、cond-matに至っては数える気にもならない。特に最近は応用関係の論文も増えている。まるで20年前を彷彿とさせる展開であるが、それよりはるかに傾きが急である。ここで現状を分析しても仕方がないので相変わらずコメントを少々。皆さん、化学式はLnFeAsOを使いましょう。母物質はこのように明らかでいいが、Fを置換したり、酸素欠損を導入して超伝導にしたときの化学式はかなり微妙である。置換しているはずのF量を実験的に決定するのは非常に難しい。さらに酸素サイトに欠損が入る可能性が高いので、O1-xFxと書くのも危険である(これは欠損がないことを前提にしている)。ましてや、論文の題目にあやふや組成式、例えば、NdFeAsO0.82F0.18などと平気で書く人がいるのは驚きだ。どうも物理屋は化学式をないがしろにしすぎる。化学屋が組成式にこだわるのは、物理屋がハミルトニアンの中身を気にするのと同じことである。現時点で最も妥当な化学式は、LnFeAs(O,F)1-xであろう。これはOとFが酸素サイトに統計的に分布し、そのうちのが欠損していることを意味する。もちろんFが含まれていなければLnFeAsO1-xとすればよい。化学式は物質の正式名称なので、これをしっかり統一しないとネットでの検索にも支障が生じる。特に組成が実験的に明確であり、それが特別な意味を待たない限りは、このような一般的な式を用いるべきである。例えば、有名なYBa2Cu3O7-δのように。
図4 鉄砒素超伝導体LnFeAs(O,F)1-xの結晶構造。桃球の鉄原子が2次元正方格子を作り、上下に紫球のAs原子が配位する。緑球はランタノイド原子、水色球はOまたはFまたは欠損である。
さて、このような大きな発見があったとき誰でも迷うのは、即座に参入するか、落ち着くまでしばらく待つか、全く蚊帳の外にいるかだろう。とても難しい選択である。我々のような小規模研究室では新物質をやって先行逃げ切りでいきたいので、できれば後追いをするのは避けたい(競馬とは違う)。しかし、全く知らんぷりしているのも淋しい。研究はみんなでやると盛り上がって楽しいものである。パイロクロアは確かに面白いが、実際にやっている人が少ないので今一盛り上がりに欠けるのも事実だ。と言うわけで、岡本氏とM1の塚本君がそれなりに合成を始めているが、やはり、この物質、というか物質群はいろいろな意味でなかなか面白そうである。結構、奥が深いかも知れない。今後の展開に期待しよう。
その他、雑感
我が研究室が第1目標に掲げてきたのは室温超伝導への挑戦である。銅酸化物のTc=160Kを超える物質を見つけたい。でも、見つけてしまうとやるべきことがなくなってしまうので、取りあえず、その過程でTcは低くても面白い超伝導体を見出したい。最終目標を達成するのは退職する頃が適当か(そんな都合の良い話はあり得ないが)。さて、しかしながら最近切に感じることは、あまりにどっぷり超伝導探索に浸っていると何も新しいものは見つからないのではないかという恐れである。NaxCoO2に水を入れて超伝導になるなどということは決して業界人には思い付かない。今回の鉄砒素超伝導体も透明電極などの仕事をしてきたグループの成果である。世の常として、狙ってできることはたかが知れている。分野外の人がやったときに初めて大きな発見が生まれるのだろう。こう考えると悲観的になってしまうが、逆に自分が別の分野のことをやるべきだと考えた方がよいのかもしれない。とは言ってもバリバリの物理はできないのでやはり物質合成であるが、目指す現象は多様にあろう。ど素人として何か新しい分野の研究にトライしてみたいと感じる今日この頃である。
上田和夫先生にこの話をしたら、毎年入ってくる学生さんが研究室に新しい風を呼び込んでくれるのでは、と言われた。確かにその通りである。元気な学生さんと何か新しい物質探索を始めたいものである。
4.人生
私事になるが、昨年夏には一騒動あって多くの皆さんに心配と迷惑を掛けた。この機会を借りてお詫びを申し上げたい。私がこの世から消えると研究室もいずれ消滅することになる。小さいながらも世帯の長としての責任を再認識した次第である。
5.これから
さて、私も若手だと思っているうちに物性研所員の平均年齢を超えてしまった(たぶん)。単純に生き延びたとすると(もう二度とヴェネツィアに行かなければ)定年まで後18年である。これを長いと思うか短いと思うかは微妙だが、まだ少しあるというのが実感である。残された時間の中で何をなすべきかを考えなければならないが、元来いい加減な性格なので確たる展望もない。しかし、前にも書いたように何れは何か全く新しい分野の仕事にも挑戦してみたいと思う。できれば人様の役に立つことをやりたい。具体的にと聞かれても答えられないが、そのうちにどこかの女神が枕もとに立って教えてくれるだろう。
物性研はこれからどう変わっていくのだろうか。または、全く変わらずにこのまま物性物理の王道を進んでいけるのだろうか。昨年、50周年記念式典においてお二人の先生がおっしゃった言葉が頭をよぎる。倉本先生の「The very best, or one of the best」に「改革者たる殉教者」と秋光先生の「もっと浪漫主義を」である。殉教者にはなりたくないが、古典主義に陥らず、浪漫を目指して頑張りたい.

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。今後とも我が研究室を温かい目で見守っていただけますようお願い申し上げます。