日仏セミナー2004 in グルノーブル

 前回のモスクワ滞在記に続き、今回はフランスのグルノーブルで開かれた日仏セミナーについて書きます。これは大阪大学の三宅先生とグルノーブルCEAのJacque Flouquet(フルケ)教授が共催した会議であり、「Quantum complex systems」(量子複雑系)について、日仏両国からそうそうたる顔ぶれの人たちが集まりました。今回は前回のモスクワでの会議と違い、完全に物理屋の会議です。私のような物理の「ぶ」の字もわかっていない化学屋が参加するのは何ですが、声をかけてもらえるのは大変有り難いことです。ちなみに私は自称、固体化学屋で、物理の会議に参加すると「いやー、私は化学屋なのでわかりません」と言い、化学の会議に参加すると「最近、物理に染まっていて化学はちょっと」と言う、似非化学屋です。

グルノーブル

 会議は2004年7月21−24日の4日間、グルノーブルのラウエランジュバン研究所(ILL)で開かれました。グルノーブルはフランスの中東部、フレンチアルプスの玄関口です。パリから「新幹線」TGVで3時間、または、リヨンまで飛行機で飛んでさらにバスで1時間。街中をイゼール川が流れ、四方、山に囲まれた盆地のこぢんまりした都市ですが、業界では日本のつくばのような研究都市として有名です。ラウエランジュバン研究所は研究用の強力な原子炉を有する研究所で、中性子を用いた物性研究の世界的な拠点です。日本の中性子施設に比べて一桁近く強い強度の中性子が使える世界有数の研究所だそうです。会議は写真のようにその原子炉と隣接する建物で開かれました。

ILLの原子炉と会議が行われた建物

 グルノーブルは私にとって思い出の場所であり、今回が3度目の訪問となります。以下に思い出話を少々。興味のない人は飛ばして下さい。最初に訪れたのは1994年の夏、高温超伝導の国際会議M2S-HTSC-IVが開かれたときです。とても暑い夏でした。当時、京大化研の助手でまだぺーぺーの若造だった私に、高野先生は自分の代わりにグルノーブルに行って話をしてこい、と言われました。正直言って自信はありませんでしたが、大変光栄で有り難く引き受けさせていただきました。会議の数ヶ月前に当時博士課程の学生だった小林君が、(Ca,Na)2CuO2Cl2という新しい超伝導体を発見してくれて、会議でこの話を初めて発表出来たのは大変な幸運でした。初日の基調講演の後、大会場の大勢の人の前で心臓が飛び出しそうだったのを覚えています。講演後、目の前に座っていたミュラー大先生(高温超伝導の発見者でノーベル賞を受賞した)から質問されましたが、何と答えたかは覚えてません。セッション終了後、コロンビア大の植村先生から、よい発表だったと誉めていただいたことを思い出します。いつも話をした後、うまくいっただろうかと不安になるものですが、声を掛けてもらえるとうれしいものです。学生さんが発表したとき、うまくいってもいかなくても、ちゃんとした批評をしてあげることが大事だと思っています。やはり、人間のドライビングフォースは誰かに誉めてもらえることでしょう。思い出話のついでに、英語での講演の秘訣(といえるほどのものでもないですが)を一つ。前述の講演では徹底的に準備をしました。英語の原稿を書き、全部暗記しました。もちろん慣れないうちはこれが不可欠です。しかし、暗記の問題点は、ちょっとしたアクシデントやど忘れで一度話の流れが途切れてしまったときに、復帰するのが難しいことです。最近では、記憶力が落ちたせいもあって?、全部覚えず、いくつかのキーワードを確実に覚えるようにしています(時々、忘れてすっ飛ばしてしまうが)。例えば、図の中の強調したいポイントの説明とか、重要な言葉はそのまま書いておきます。ただし、書きすぎて読み上げるのは頂けません。キーワードがすらすら発音できるとそれに続く文章は何とかなるものです。また、話すキーワードの順番をよく考えて、聞いている人の思考回路に混乱を招かないよう配慮することも重要です。さあ、米澤君、頑張りましょう。

 前置きが長いですね。でも、この文章は私の趣味で書いているので好きに書かせてもらいます。今回のグルノーブルの重鎮、フルケ教授とは以前に一度、ポーランドのクラコウで開かれた強相関電子系の会議で会っています。研究の上ではほとんど繋がりがないのですが、クラコウでのバンケットでワインを飲みながら話していたら妙に気があってしまって、実に面白い人です。ご存じのようにヨーロッパの通貨はユーロになり、古いフレンチフランはもう使えません。国立銀行に行くとユーロに交換できるそうですが、結構手間だと聞きました。このフランを不覚にも10万円近く持って困っていた私に、彼が救いの手を差し伸べてくれました。感謝。でも、これはどうでもよい話ですな。

フルケ教授と筆者

フランスへ

 今回のフランス行きはエールフランス。アエロフロートと違って機内で雨は降りませんし、食事も付いてます(冗談)。夏休みの始まりもあって機内は満席でした。今回初めて認識したのは、成田の2つのターミナルが随分異なること。第2ターミナルは人でごった返しているが、今回の第1はがらがらで、とてもゆったりしている。機内で隣り合わせたのは、何とニューカレドニアから来た文学の教授。ご主人と一緒にパリへ行き、フィレンツェでの会議に出席するそうな。フランス語の発音を教えてもらった。ニューカレドニアには行ったことがないが、もちろん、今は冬。大学の休みは夏なので、ヨーロッパの夏を訪れることが出来るのは希だそうです。ちなみに日本経由で24時間。ご苦労様です。日本からは12時間。驚いたことに帰りの飛行機でもニューカレドニアに帰るお兄さんと隣合わせになりました。ニューカレドニアもsounds good!ですね。成田を7月18日の昼12時に出発し、現地時間の午後4時にシャルルドゴールに着く。時差で人生が長くなってハッピー。パリは曇りで涼しい。2時間待ちでリヨンに飛ぶ。リヨンからバスでグルノーブルへ1時間。着いたのは午後10時過ぎ。疲れました。

 7月19−20日は、研究所訪問、および、物性研の松田氏、東北大金研の山田和芳氏と議論して過ごす。どこで議論したかは内緒。

会議とツールドフランス

 21日から会議が始まる。今回も前回のモスクワ同様、初日の発表で大変よろしい。早めに話すことの利点の一つは、皆さんに顔を覚えてもらって会議の最中に知り合いになれる機会が増えること。もちろん、最大の利点は、自分の話が終われば後は気楽に楽しむだけ。例によって会議のscientificな内容は詳しく書きませんが(内容が高度すぎてよくわからん)、その雰囲気についていくつか書きましょう。まず、フルケ教授のお人柄。グルノーブルの固体物理のボスらしいですが、豪快で、それでいてきめ細かい気配りをしてくれました。が、なにせフランス人のすること、かなりいい加減です。初日は偶然にもツールドフランスの最もハードなタイムトライアルがグルノーブルのすぐ近くの山岳コースで行われました。で、午後のコーヒーブレークに会場のスクリーンにそのテレビ中継が映し出され、皆で観戦することに。今回のツールドフランスはアメリカのランス・アームストロングが6連覇を果たすかが大きな話題となってます。彼の走りは最後で、中継が始まる前に次のセッションの時間となってしまい、一端中断。しかし、フルケ先生もフランス側の皆さんもどうしても見たかったみたいで、講演が終わるたびに質疑応答を無理矢理切り上げてテレビ中継に突入。これが何回か繰り返されましたが、さすがに最後にはあきらめたようで、中継は途中でエンドとなりました。結局、彼は今回のレースに勝ったようです。こんなに和やかでいい加減な会議は初めてです。

会議会場でツールドフランスを観戦する参加者たち。正面左手にはちゃんと日仏の旗が掲げられています。

 ついでにツールドフランス決勝ゴールについて。会議終了後、パリ経由で帰るので25日の日曜にパリにおりました。なんと偶然にも?この日はツールドフランスの決勝の日。最終レースはパリのシャンゼリゼ通りを凱旋門に向かって走り、その直前でUターンしてコンコルド広場辺りがゴールとなります。タクシー運転手やホテルの人に聞くと、ゴールは昼頃で朝7時には行って場所を取らないといけないと言われました。結局、10時頃にシャンゼリゼに着きましたが、すでに道端は3重の列。かなり長いコースですから、相当の人がいる。12時頃まで待っていたら、アメリカ人が、まだレースは半分くらいだから、あと2時間はかかるだろうと教えてくれた。で、LEONというブリュッセルが本店のムール貝レストランで昼食を。昔、ベルギーのアントワープにいたことがあって、ムール貝は大好物なのでした。食べてる間にゴールしたらどうしようかと思いながらも、ゆっくり食事を終えて観戦?に復帰。ビールで眠たくなったのも我慢して、延々と待ち続けましたが、なんと、自転車の一団が走ってきたのは5時少し前。実に7時間も待ったのでありました。おまけに、すごい人混み。自転車はとても速くて一瞬のうちに通り過ぎ、肉眼で自転車を見ることは出来ず、一生懸命手をかざして撮ったデジカメ写真にぼけた姿が映っていただけ(写真)。我ながら、よくもまあ貴重なパリの7時間を無駄にしたことかと呆れました。

ツールドフランスの最終コーナー

パリ、シャンゼリゼ通り、凱旋門の手前にて

 さて、グルノーブルに戻って、さらにフルケ教授について。ある東大のM氏が講演を終えると、それまで穏やかに質問していたフルケ先生は猛然と立ち上がり、「おまえの言うことは全く信じない」と。言い返そうとするM氏に同じ発言を繰り返し、M氏はみごとに撃沈されました。M氏の実験結果は非常に優れたものでしたが、その解釈がお気に召さなかったようです。フルケ教授は時々これをされるそうですが、今回はこれ一回切りで私の発表の時にもおとなしくしていてくれました。ちなみに私の発表は自己採点で50点。会議直前の少々、ハードなスケジュールがたたって、疲労と睡眠不足と筋肉痛で口がまわらず、散々でした。反省。

バンケットと食事

 会議2日目の終了後、グルノーブル市内でバンケットが開かれました。会場は切り立った崖の上に建つレストラン。市内から団子のような4つ並びゴンドラに乗って崖の上へ。初日の会議と同様、とても和やかな雰囲気で会が行われました。宴たけなわの頃、フルケ教授にいきなり歌を歌えと言われた京大のI氏。尻込みせず、見事に君が代を熱唱しました。その後、フランス、ドイツ、ロシア語のカラオケ大会となってしまい、レストランにいた関係ないお客さんたちはさぞかし驚いたことでしょう。この盛り上がりもフルケ教授のお人柄でしょう。下はバンケットの前に撮られた会議参加者の写真です。

バンケットの前に参加者全員で記念撮影

 会議中の昼食は研究所のカフェテリアで現地の人たちと一緒に取ります。会議参加者は無料で、何をいくらとってもOK。ビールやワインもあります。私は水しか飲みませんでしたが。味はまあまあでしょうか。ついでに毎度お楽しみの夕食について。初日の夜はグルノーブルに詳しいロシアの理論家とスイスから来たSigristさん(日本に長くいたことがあり、奥さんも日本人、日本語もぺらぺらのJapanese-Swiss)に誘ってもらって、計5人で典型的なフレンチレストランに行きました。レストランに関して、何をもって典型的と言うべきか、よくわからないのですが、これは如何にもと感じました。外のテラスにテーブルが10ぐらい、中にも同数で小さなバーがあり、美味しそうなデザートが並んでいるテーブルが中央に。壁にはワインのラベルや洒落た壁掛けがあり、店の雰囲気を作っています。私は白トリュフの何とかとラムの何とかとチョコレートの何とかを食しました。白トリュフは超薄切りをバケットの上にのせて軽く焼いたもの(写真)で、とてもよい薫りがして美味でした。話が飛びますが、トリュフというのはこういうものかと初めて認識して是非土産に持ち帰りたいと思い、最後のパリで買いに行きました。どこかのマルシェ(市場)に行って買えばよかったのですが、時間の都合で、マドレーヌ寺院の裏のトリュフ専門店へ。周りはフォーションだのエディアールだの高級店ばかり。値段がわからないので店の人の言いなりになって、拳半分くらいの黒トリュフを32ユーロ(4,500円くらい)で買いました。値段の価値があるかわからないのですが、その強烈な香りは袋を何重にしても抑えられず、きっとよい話のネタになるでしょう。後日談ですが、帰国後、3日目に研究室でトリュフパーティーを開きました。山浦シェフが腕をふるってリゾットを作ってくれたのですが、なんと前日まで匂いまくっていたトリュフの香りが消滅。世の中すべてものに限りがあることを実感しました。さて、グルノーブルのレストランに戻って、メーンのラムも美味しく頂きました。デザートのチョコレート何とかも、とても美味しかったのですが、元来甘いものが苦手なので半分残してしまいました。ごめんなさい。

白トリュフの前菜

Bon gout!

 前述のように2日目はバンケットでした。3日目は日本人参加者の若い人たちと大勢で街のシーフードレストランへ。グルノーブルのような山に囲まれたところで、と思うのですが、かきなどの貝類が美味しいとのことで、確かに食したかきもムール貝も美味しかったです。それからエスカルゴが病みつきになりそうな美味。メーンディッシュの魚は今一でしたが、十分満足。お店の人たちも愉快で、きれいなお嬢さんにフランス語で名前を聞こうとしていた若い理論家もいましたね。

 食事のついでにコーヒーについて一言。フランスでコーヒー一杯と頼むと、小さなデミタスカップに入ったエスプレッソが出てきます。しかし、味は今一つ。ハッキリ言ってエスプレッソなら、スターバックスの方が美味しいし、自分の部屋で入れるコーヒーの方が香りがよい。カフェオレはクロワッサンのお供だし、何とかならないものでしょうか。

会議が終わって

 会議は24日、土曜のお昼に無事終わりました。次回は2年後に日本でやりたいとのことです。このような日仏2国を中心とした会議には、通常の国際会議と違ったアットホームな雰囲気があって、これを続けることは重い電子系を中心とした強相関の物理を盛り上げる上で重要でしょう。最後の演説でフルケ教授は京都の壬生寺の話を持ち出してきましたが、その辺でやれとのプレッシャーでしょうか。三宅先生を初めとして日本の偉い先生方は頑張って下さることと思います(まずは先立つものが必要)。会議終了後、多くの皆さんは続いてドイツのカールスルーエで開かれる強相関電子系の会議に参加するためにバスで出発されました。私と山田先生はパリ経由で帰国します。山田先生は日仏セミナーの前にすでにバルセロナでの会議に参加されていました。カールスルーエの後に、今度はドレスデンで日独セミナーもあるそうで、それにも参加される方が多いようです。何と沢山の会議があることか。偉い先生方はいろいろなしがらみがあるそうですが、ご苦労様です。お体に気を付けて。

 会議の最中に話題になっていたことに、最近、国際会議やセミナーが多すぎるのではないか、というのがあります。様々な競争的資金の導入のせいで、その評価に絡む会議が増えていることは確かです。会議にばかり出て研究室での研究がおろそかになるのは頂けません。私自身も最近、そのようになりつつあって、反省してます。でも、外国へ行くのは楽しいですよね。留守を預かる研究室の皆さん、誠にご苦労様です。

 最後にパリの話を少々。パリはいつ行っても「パリ」ですね。今回はモンマルトルに2星の安いホテルを取りました。以前だと、リーゾナブルな値段のホテルを探して予約するのは結構大変でしたが、最近はネットで簡単に好みのホテルを探すことが出来ます(googleに、hotel in parisと入れてみて下さい)。さて、前述のように日曜の昼間はツールドフランスに振り回されて疲れ果て、夕方から気分を新たにして、セーヌ川に繋がるサンマルタン運河へ、ぶらっと出かけました。夏のヨーロッパは午後9時を過ぎても明るい。サンマルタン運河は古いパリの趣を残していて、いまだに船が通ると橋を上げる跳ね橋があります。また、高低差を回避する揚水式運河でもあります。夕方の運河沿いはパリ市民の憩いの場となっており、しばし、私も参加しました。この頃、日本はとても暑かったようですが、パリの夕暮れは涼しく、長袖が欲しいくらいでした。

サンマルタン運河

 夜は一人で「きょうと」などと看板を掲げた店で寿司を食し、モンマルトルの丘を登ると、そこからはパリの夜景が一望できます。モンマルトルのシンボルであるサクレクール寺院では、夜のミサが行われていたので、ここでも、しばしの参加。サクレクール寺院は巨大な内部空間をもち、これまた巨大なドームの天井一杯に巨大なキリストと弟子たちが、こっちはいい世界だよと導いています。神父の歌うような説教を聞きながら(もちろん全くわかりませんが)、長い歴史を感じることが出来ました。外に出て少し歩くと夜遅くまでにぎわっている界隈があります。モンマルトルが芸術家であふれていたベルエポックの時代から有名なピアノバーがあり、洒落たピアノの音色と人々の笑い声が流れてきます。さらに少し行くと、ルノアールの絵で有名なダンスホール、ムーランドラギャレットがある。下界に降りていくと有名なキャバレー、ムーランルージュが暗闇に一際輝いておりました。今回のフランス旅行の最後にふさわしい素敵な夜となりました。

モンマルトルの夜のシンボル、ムーランルージュ

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬(ほほ) 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け

唄ってあげましょ 女(わたし)でよけりゃ
セイヌのたそがれ 瞼(まぶた)の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
今更(いまさら)かえらぬ 身の上を

「カスバの女」より

 最後の最後にパリの表玄関であるシャルル・ドゴール空港について文句。日本へのエールフランスが出る「2F」ターミナルには何もない。レストランは出発ゲート向かって右の突き当たりにやたらと高いブラッセリー、右端にはマクドナルドのヨーロッパ版QUICK、中央にやたらと込んでるレストランとバーがあるだけ。フランスの表玄関とはとても信じられない。おまけに出国カウンターを通るとこれまた何もない。お土産を買う店もとても貧弱。大きな空港としては何とお粗末なことか。と言って腹を立てているのには理由があって、帰りの便が午後11時半出発と遅い便だったので空港で晩飯を食べようと思ってやってきたが、頼みのQUICKは9時に閉まり、仕方なく中央の下の階に降りたところにある小さなバーで、パックのまずいサンドイッチをビールで流し込んでいるからです。もう一つ、チェックインカウンターに並んでいるときに頭にくることがあったのが原因。15人くらい並んでいたら、日本人20人ぐらいの団体がやってきて、何と添乗員の怖そうなお姉さんが入り口の係員にねじ込み、無理矢理通してしまったこと。どうも特別な契約があるらしく、係りの人も渋々といった感じだった。時間もたっぷりあって、短い列なのにどうして並んで待てないのか。一緒に列に並んでいたフランス人にどうしたのかと聞かれて、とても恥ずかしい思いをした。日本の添乗員さん、何とかならないでしょうか。

 さて、この辺でやめます。今、帰りのエールフランスの中、フランス時間の朝7時。日本では午後2時です。今回のフランス旅行記もロシア版と同様、極めて個人的なことを書き並べました。読んで下さった暇な方、ありがとうございます。フランスはやはり豊かな国でした。長い歴史と文化の香りに振れ、ゆったりとした時間の流れを感じます。10年前のグルノーブル訪問と比べて大きな違いは、はるかに英語が通じるようになったと感じたことでしょうか。フランス人は英語で話しかけても答えてくれないと言う話をよく聞きますが、ただ単に、われわれ日本人と同様、英語が苦手なだけです。でも、世代交代が進んで、話す人が増えてきたのではないかと思います。これは旅行者にとってよいことですが、そこはフランス、旅行を楽しみたければ、片言のフランス語でもやはり必要でしょう。私のフランス語はnearly zeroです。フランスに行く直前と行ってからは何とか覚えようとするのですが、いつもそれっきり。フランス人の教授に紹介されるとき、決まって、「初めまして」というと相手は驚いて何かむにゃむにゃとしゃべってくるので、「理解できません」と返す。あとは、「おはよう」「ありがとう」「おねがい」、…フランス語が話せたらさぞかしいいだろうと思うのですが、一生無理でしょう。中1の娘には是非フランス語を覚えてもらって、一緒に連れて行ってもらうのが夢です。フルケ先生の英語はアクセントが半分フランス語なので、なかなか聞き取れない。恐らく、フランス語の基本を知っていたらもっと理解できるのでしょう。最近、神戸に移られたH氏によると、「私はフルケの英語からフランス語を勉強した」という有名なジョークがあるそうです。最後に何か教訓めいたことを書こうかとも思いましたが、長くなったのでやめておきます。では、また。Bon voyage!