グルノーブルで中性子

 2011年7月11日、唐突に梅雨が明けて猛暑となった東京を脱出し、フランスのグルノーブルに向かっている。フランクフルトでリヨン行きの乗り継ぎ便出発までまだ2時間近くある。今回の飛行機はルフトハンザのA380だったが、エールフランスのと同様、特に快適になった気はしなかった。大昔にルフトハンザに乗った記憶があるが、久しぶりに乗ってもやはり食事はひどかった。はっきり言ってほとんど食べられない。飛行機にもJRの駅弁を買って乗り込む習慣を作って欲しいと心から望んでいるのは私だけだろうか。

 今回の目的は、暑い日本から逃げることではなく、グルノーブルのILLという研究所で中性子を使った実験に参加することである。参加といっても私は役に立たないので見ているだけだが、一緒に行くヨーラン君と実験結果について議論しながら進めていくのは、多分、意味があるだろうということでやってきた。この実験、本来なら5月の予定であったが、大震災の影響でこの日程に延期してもらったのだ。

 1月にノルウェー人のヨーランがポスドクとして来てから、一緒にカゴメの形をした銅鉱物ボルボサイトに関する研究を始めた。彼の中性子実験に関する経験を活かして、新たに良質な試料を作りボルボの物性を調べようというわけである。問題は多量の試料が必要であること、さらに通常の水ではなく、ちょっと重たい水を使って試料を作る必要がある。その準備に取りかかったとたんにあの大震災が起き、数日後に真っ青になっているヨーランを連れて京都に行くことになった。京大の陰山氏の好意で、ヨーランは陰山研に居候をして試料合成を続けさせてもらった。陰山氏には大感謝である。あの異常な状況のもとで、急遽、彼の住まいを確保したり、いっそのこと研究室ごと京都に疎開するかなどとも考えて大変な日々であった。ヨーランは結局、3ヶ月の居候の末、40gもの試料を作って無事今回の実験に辿り着いたのである(ちなみに今回の実験で使う試料は数gだが、次回の8月初めに行われる2回目の実験では多量の試料が必要となる。しかし、後日談だが、試料セルが新しくなっていたために実際に使えた試料はその1/3であった)。本当にご苦労さまでした。これで何か面白いものが見えなかったら嘘である。結果に乞うご期待。

ラウエ・ランジュバン研究所(ILL)

 順調にリヨンに着き、バスに1時間乗ってグルノーブルの街の郊外にあるラウエ・ランジュバン研究所(ILL)に到着。敷地内のゲストハウスに無事辿り着く。一日早く来ているヨーランから試料が無事届いたことを聞き、ほっとする。預けた荷物が途中でロストしたら、これまでの苦労もすべてはパアだった。翌日早朝から試料を巨大な魔法瓶の中にセットして順調に実験が始まった。-273.11℃に冷やされた試料に中性子をぶち当ててどのように跳ね返ってくるかを調べる。ここの中性子はとても量が多いのでやりやすいのであるが、それでも今回の実験は大変厳しく、ノイズの中に埋もれたピークを心眼で探しながら、ひたすら時間をかけて(15時間)データを貯めることになった。もちろん使える時間は限られていて、今回は3日間なので、結果を解析しながらベストの測定条件を選んで実験を進めていかねばならない。隣でヨーランはひたすらデータをいじっている。何か見えているようでもあり、ただのノイズかもしれないピークをひたすら追い求めて。今回、初めてこういう実験に立ち会ったが、思っていたよりなかなか楽しいものだ。もちろん、面白い結果が出ればもっといいのであるが。

 この施設の素晴らしいところは、優秀な技術者が実験を助けてくれることだ。最初の試料セッティングは朝早くから3人が寄って集ってやってくれたし、その後の実験にはトーマスさんという面白い人がずっと面倒を見てくれている。話し出すと止まらないのはちょっと困るのだが。今日、7月14日はフランスの独立記念日で祝日だが、彼はちゃんと付き合ってくれる。一度、予定外に実験条件を変える必要があった時、彼は自宅にいたのだが、電話をするとなんと自宅のパソコンから実験室のパソコンを遠隔操作して対応してくれた。目の前のパソコンのカーソルが勝手に動いて条件を変えていく。まさに驚きである。

ヨーラン君とオレンジクライオスタット

 ここには世界中から中性子実験のために人が集まってくる。アメリカ人や日本からの知り合いも近くで実験している。中性子、特に強い中性子源はどこにでもあるわけではないので、みんながここにはるばる実験をしにやってくるのである。特に震災の影響で留まっている日本のユーザーには有り難い施設である。

 さて、まじめなことばかり書いても仕方がないので昨晩の話をしよう。ここのボスの一人であるハリソンさんが自宅へ夕食に招待してくれた。彼はこの秋からILLの所長になるそうである。素晴らしい景色の高台にあってプール付きのなんとも羨ましい家に奥さんと3人の小さい娘さんたちと住んでいる。一番下の子はレベッカちゃんである。素晴らしい。一緒に招待されたトーマスさんもハリソンさんもまあ、よくしゃべること、とても付いていけない。しかし、それなりに楽しい一時をありがとうございました。研究所に戻ると装置は無人で何のトラブルもなく、ちゃんとデータを取り続けている。

 実験を始めて4日目の朝、無事にすべての予定が終わった。ヨーランは朝早くジュネーブ経由でブタペストに飛び、自宅のあるノルウェーのスタバンゲルに向かった。彼は2週間後に再びここに戻り、別の装置でもっと困難な実験に挑むことになっている。こっちは明日早朝にフランクフルト経由で帰国の予定。暑い暑いと聞こえてくる日本に戻るのかと思うと気が重くなる。残された貴重な時間を街に出て有意義に過ごすのは当然だ。今日は朝から快晴だが風が強いので日陰は寒いくらいだ。昨日の独立記念日を境にフランスは完全にバカンスモードに入っている。街はそぞろ歩く人で一杯、といっても、どこかの過密都市と比べるとはるかにゆったりしているが、皆、それぞれに初夏の日差しを楽しんでいるようだ。一人、パニーニをほおばり、歩き疲れて座ったカフェでレフを飲みながら、この最後の文章を書いています。今回はいつものように会議に出たりセミナーをしたりするのではなく、明確な目的がある旅だったので、この文を書く気になりました。少しだけマンネリから脱出できるかと思ってね。

 このメール社会ではどこにいてもあまり変わらない。こちらにいる間に査読を一つ頼まれてこなしたり、来年のHFM国際会議のプログラムチェアをやれと頼まれたり、秋に向けて画策したりと、世界はめまぐるしく動き回っている。この流れの中に飲み込まれず如何に上手に波の上をサーフィンするかがとても大事になっている。なんて、くだらないことを考えながら、フランス語のおしゃべりの中でこの貴重な一時をもう少しリラックスして過ごしましょう。それにしても向こうに座っている男、なんて美男子なんだろう。呆れるわい。

Z
July 15, 2011