モスクワ滞在記 2004

 本稿は筆者がモスクワで開かれた国際会議に参加したときの紀行文である。いささか歳をとり国外に友人が増えたこともあって、最近、外国で開催される会議に参加する機会が多くなった。今回初めてモスクワを訪れ、そこでの経験や感じたことを書き記しておきたいと思う。それは自分自身の記憶のためであり、また、同業者やこれから研究生活を始めようとしている若い人々にとって何らかのメッセージになればという思いからである。最初にお断りしておくが、会議の専門的な話を書くことが目的ではないので、必然的に話の内容は柔らかくなる。決して1週間、モスクワで遊んできたと誤解されないように。

モスクワ滞在記 2004年6月19〜27日

東京大学物性研究所 広井善二

出発前、ビザ取得について

 モスクワへ行くには、なんとビザが必要である。実際に行くことになって初めて認識した。出発の1ヶ月前にモスクワ大学からビザ用の招待状が届く。「地球の歩き方」を読んで、これなら自分で取れそうだと思い、六本木の交差点から東京タワーへ向かって行ったところにあるロシア大使館へ。前もって電話で確認したら、親切そうな声で9時から12時半の間に来いとのこと。気楽に出向くと、人はまばらだが、全く順番が回ってこず、時間切れで午後また来いと言われた。よく見ると周りは旅行会社関係の人ばかりで、皆さん、パスポートをトランプのように広げている。これはだめだと思い、あっさりあきらめて六本木でランチを食べて帰りました。結局、旅行会社に頼んでビザを取ってもらった。初めからそうするべきだった。お金はかかるが(1万7千円も)、時間の方が大事です。

モスクワへ 6月19日(土曜)

 成田からアエロフロートで10時間。アエロフロートはかつては機内で雨が降るといわれていたが、まあまあだった。しかし、帰りの便で隣り合わせた人の話によると、香港からモスクワまでの便は古いジャンボ機でテレビも音楽もなんと食事も無かったそうである。シェレメチェボ空港に着いたのは午後7時過ぎ。モスクワ大学の学生さんが迎えに来てくれて、無事、大学の近くのホテルに着きました。さて、今回の旅の最大の問題はこのホテル。見かけは取り壊し寸前の廃墟のような15階建ての建物。中身は極めて不親切で英語の通じない従業員とぼろぼろの部屋。お湯が出るのが不思議なくらいの風呂。朝から食欲をなくす朝食。文句ばかりで済みません。

会議が始まる 20日(日曜)

 今回の会議MSU-HTSC-VIIは、モスクワ大学が主催する、高温超伝導体と関連物質に関する国際会議で、すでに7回目となる。前回は3年前にモスクワからサントペテルスブルグまで船で下りながら、船上で行われたという。今回は、地味に大学の講堂で、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなどの国々から多くの研究者が参加して行われた。発表は主に遷移金属酸化物とナノ物質に関するもの。私は初めての参加で、昨年末にバルセロナであった会議に参加中、モスクワ大学のAntipov教授からお誘いを受けたのがきっかけである。

 会議初日の午前中に市内観光があり、皆でバスに乗り、赤の広場や市内の名所をざっとまわる。会議は、午後遅くからRaveauの講演で始まり、私はその後に、最近やっているパイロクロア酸化物の超伝導について話をした。会場は大学内の古いホールで、暗いプロジェクターと古いコンピュータを使い、ワイヤレスマウスの不調のために、next slide, pleaseを繰り返す、奇妙なパワーポイント講演となった。しかしながら、皆さん元気で沢山の質問が出て活発な議論が行われた。セッション終了後にwelcome partyがあり、旧知の人たちと話したり、知らない人から声をかけてもらったりして大変楽しく過ごした。初日の講演は実によろしい。最終日の発表は最悪。

 今日の一番の収穫は、ヨルダンから来た人と知り合いになったことか。英語ではジョーダンなので、京大の吉村氏と一緒にジョーダン人と呼んでいた。なかなかいい奴で、今度ジョーダンに招待してまともな5星ホテルに泊めてくれるとのこと。しかし、ジョーダンはイスラエルやイラクと接していて何とも不安な気がする。彼は全く安全だと言っていたが。知り合いがいなければ絶対に行かないところなので、取りあえず是非招待してくれと頼んでおきました。

会議2日目 21日(月曜日)

 朝9時から会議が始まる。しかし、ホテルの朝食は8時過ぎから。会場まで歩いて20分はかかるので、ぎりぎり間に合うか。会場は2つの古い講義室で、長い歴史を感じさせる。ちなみにモスクワ大学は創立250周年を迎え、学生数5万人、ロシアで最も入学が難しい大学らしい。確かに広大な敷地に立派な建物、特に会場となったメインビルディング(プログラム表紙の写真)は見事な建築で、モスクワの観光案内にも出てくる。朝から天気が良く、外は汗ばむ陽気だが、講義室はひんやりしていて寒いくらい。

 昼は皆で、カフェテリアへ。メニューはサラダと野菜たっぷりのスープに肉じゃがもどき。とても美味でした。午後の講演が終わると6時からポスター発表があり、主にモスクワ大学の学生さんが発表を。皆さん、極めてまじめで一生懸命話してました。ポスターの後、隣の部屋で8時からコンサートがあるというのでいってみる。100〜200人程度の小さなコンサートホールがあり、舞台ではピアノと6人の男性が次々とオペラの一節を聞かせてくれた。中にはボリショイ劇場に出ているプロもいたそうな。音楽音痴の筆者をも感動させる見事な歌声でした。ホールに響く高らかな肉声を聞きながら、ロシアの懐の深さを感じた。日本の大学では、このようなホールを造るのは難しく、気軽に音楽にふれる機会は持てないですね。

 夜は吉村氏とホテル近くのレストランへ。前日の昼にロシア人に連れていってもらったところ。どの店にも共通していることだが、外見から店の中身を判断するのが難しい。英語は全く通じず、メニューもロシア語なので、ビール、かろうじて理解したボルシチと、いい加減に指さしたメインディッシュを注文する。ロシアのビールは軽いが味は悪くない。ボルシチは真っ赤で野菜と肉がたっぷり入ったスープ。メインはチキンロールのカツとなった。味付けはあっさりしていて、ハーブがふんだんに使われており、とても気に入りました。量が少なめなのも、少々歳取った胃にはちょうどよい。外国で自力で美味しいものに巡り会えるととても幸せな気分になります。

会議3日目 22日(火曜日)

アルバータ通りでマトリョーシカを値切る吉村氏

 とても会議に出たかったのだが、気が変わって、朝から市内を散歩。地下鉄の切符を買い、いざクレムリンへ。が、しかし、何かの軍事パレードのために中へ入れず残念。トレチャコフ美術館(必見とは言い難い)へ行き、アルバータ通りでマトリョーシカ(例のロシア人形)を値切る(写真は京大吉村氏)。最外殻からプーチン、エリツィン、ゴルバチョフ、最後がピョートル大帝で計10人の大物が収まってます。これは研究室への土産に最適。1つ買えば、全員に行き渡る。わが研究室では、あみだくじをして皆に分け、10年後に持ち寄って1つにしようということになりました。その日のお昼はMy My(ムームー)というレストランで料理を指さして注文し、ゆっくり食事を楽しんでから、会議に復帰。ポスター会場でベル研出身の超大物教授やマドリッドの大教授、シカゴの有名教授と話し、何人かの学生さんと議論して楽しみました。晩飯は、スーパーマーケットで買ってきたビールとお総菜などで軽く済ませる。間違って国産より数倍高い輸入ビールを買ってしまい、苦笑。

会議4日目 23日(水曜日)

 会議主催のエクスカーションツアーに参加。モスクワ郊外のロストフへ。なんと200kmも離れていて、片道4時間、往復8時間もバスに閉じ込められる。おまけに、ロストフには廃墟に近いクレムリンのミニチュアがあるだけ(写真で見ると立派だが)。本家のクレムリンをまだ見ていないのに。唯一の収穫はバス道中でロシアが如何に広大であるかを実感できたこと。もう一つ、立ち寄ったカフェで如何に沢山の蚊に襲われたことか。このツアーに参加せず、モスクワのクレムリンを見に行った人が何人かいて、それが正解でしたね、吉村さん。

会議5日目 24日(木曜日)

 再び、会議に。今日の講演は、正直言ってかなりレベルの低いものもあり、今一。しかし、午後に行われた高温超伝導に関するround table discussionは、ヒューストンから香港に移ったPaul Chuによる思い出話で盛り上がった。Chuが最後に会場に向かって、今後1年以内に転移温度の最高記録が塗り替えられると思う奴は手を挙げろと言ったとき、私は迷わず手を挙げたのだが、他には誰も手を挙げなかった。お陰で皆さんから一斉に注目されて理由を言えということになり、dreamが必要だと言ったが、かなり失笑を買ったかもしれない。まあいいだろう。

会議主催者のアンティポフ教授と筆者

 次に夜のバンケットの話。国際会議に参加したとき、バンケットに出るかどうかでいつも悩む。会議によっては、Grenobleで開かれたM2Sのように、ひどいバンケットになることもある。でも、比較的小さな規模の会議ではその土地の趣向が凝らされた雰囲気を楽しむことが出来たりする。何より、友人を作るにはよい。まあ、皆さん、勇気を持って参加して下さい。ちなみに、バンケット代は科研費等で支払うことが可能です。さて、今回のバンケットはクレムリンの正面にあるロシアホテルという巨大なホテルで行われました。ここは3星で、地球の歩き方によると一泊60ドル程度と安い。あと市内には多くの5星ホテルがあるが、一泊300ドル以上。有名なメトロポールホテルはなんと500ドルを超えるそうな。バンケットの行われたレストランのバルコニーからは、ライトアップされたクレムリンが見渡せて心に残る風景だった。バンケットは8人で丸テーブルを囲み、様々な話題が飛び交う。驚いたのはメインディッシュの前に皆が外のバルコニーに出てしまったこと。そこで景色を眺めて歓談が続き、記念撮影をして再び食事に戻る。最期にウオッカを飲むが、乾杯をして日本人以外は皆一気に飲み干す。これが流儀だと笑われ、2杯目で見習いました。隣に座った、ベラルーシ出身でチューリッヒのETHで働く男と仲良くなり、極めて深い友情で結ばれる。昔、ある雑誌に書いた電顕のレビュー記事について質問され、誰も読まないだろうと思って書いたのを思い出した。今更ながら、サイエンスはinternationalであり、どこかで自分の書いたものをまじめに読んでくれる人がいるかと思うとうれしくなる。彼とは今後長い付き合いができそうな気がする。ただ、彼の現在置かれている状況は深刻なもので、ベラルーシの職はほとんど首の状態、ETHも今年末に契約が切れるらしい。延長できなければ無職だと笑っていた。旧ソ連の科学者の未来は決して明るいとは言えないが、何とかなることを祈っている。

会議最終日 25日(金曜日)

 会議最終日はProf. Vasilievの講演で始まる。午後は、Paul Chuによるマンガン酸化物の多重相共存の話があり、最期にNorth Western大のKen Poeppelmeierによる透明酸化物伝導体の話で締めくくられる。アメリカ人の話はいつ聞いても早口でついていけないが、実に見事なイントロとスムーズな話の流れに感心させられる。透明電極の話は以前から興味を持っていたが、いろいろと考えさせられる講演だった。ちなみに私が何か楽しいことを思いつくのは全く理解不能な難しい物理の講演を聴いているときである。頭が聴覚をシャットダウンすると、想像の世界が開けることもある。

 Closing sessionではMassimo MarezioとAlario-Francoにより、ポスターの優秀賞が発表され授賞式が行われた。その後、Alario-Francoによる長い、まとめかジョークかわからない話があり、会場は大いに盛り上がった。残念ながら私には半分くらいしかジョークが理解できなかったが。その中から、面白かったのを一つ。2人のおじいさんが公園のベンチに座っている。その前をとても魅力的な(とてもそのように聞こえる英語の表現だったが、残念ながら忘れてしまった)女性が通り過ぎる。一方のおじいさんが、「昔、あんなきれいな女性をいつも追いかけていたのを覚えているか。」と聞く。他方が、「ああ、もちろん覚えているとも。でも、なぜ追いかけたのかを忘れてしまった。」スペイン人は実に愛すべき人種である。

 さて、会議終了後、低温物理研究所のVasiliev教授からパーティーに誘われた。この日は学期末に当たり、学生が3ヶ月もの長い夏休みに入る直前であった。また、あちこちで卒業のお祝いが開かれており、彼のところではLast Helium Dayというバーベキューパーティーが行われた。ちなみに彼はたびたび日本を訪れており、特に東北大学と学生の交換制度を持っている。低温棟の入り口には日本語で「東北大学リエゾン室」なる看板が掲げられていた(写真)。低温物理研究所の初代所長はカピッツァだそうである。彼はケンブリッジで強磁場とヘリウム液化の研究をしていたが、1934年、スターリンによりロシアに呼び戻され、その後、二度とロシアの外に出ることはなかった。唯一、液体ヘリウムの超流動の発見により、1978年ストックホルムでノーベル賞を受賞した時が例外である。Vasilievによると、カピッツァはモスクワ大学の実力者の一人であったが、ある時、パーティーでKGBの幹部と喧嘩をして、その後7年間、ダッチャと呼ばれるサマーハウスに幽閉されたそうである。かつてのロシアでは明日、何が起こるかわからなかった、とのことである。

豪快なワインの瓶

 パーティーはとてもフレンドリーで楽しい時間を過ごした。特に、4年生の学生数人と話が出来たのは収穫である。彼らはとても初々しくていい感じだった。そのうち何人かは日本に来る機会があるかもしれない。ただ、交換制度は競争が厳しいようである。印象的だったのは彼らに卒業したらどうするかと聞いた時、一人の学生がロシアでは一週間後、一ヶ月後のことはわからないと答えたことだ。今でも不安定な政治状況が背景にあるようである。確かに今回のモスクワでは、日本やヨーロッパとの違いをあまり感じなかったが、数年前はひどかったという声をあちこちで聞いた。自由経済への移行により確かに物はあふれるようになったが、失ったものも多く、揺り戻しが起こっているようである。学生の就職先は必ずしも無いわけではないが、大学でのキャリアを生かすような職を見つけることはかなり難しいらしい。ましてや、サイエンスを続けることは大変なことだろう。モスクワ大学の物理学科には驚くほど多くの教授がいるが、その分、サラリーが低いそうである。ロシアの状況に比べると日本はなんと幸せなことか、しみじみと感じながらホテルに戻った。

帰国 26日(土曜日)

 飛行機の出発時間が遅いので、時間がある。幸いにも、知人が街を案内をしてくれることとなった。彼女は、Nellie Kasanovaさんで、昔、旧無機材研にいたことがあり、その時、共同研究をしたことがある。彼女がモスクワ大の出身で、現在ここで仕事をしているとは知らず、うれしい再会となった。市内に出て、旧モスクワ大の建物を訪れ、プーシキン美術館を見て回った。道中、ロシアの現状や将来を含め、いろいろな話をすることが出来てとても有意義だった。

 初めてのモスクワ。行ったことがないところはいつまで経っても地図上の一点にすぎない。その地に立って初めて広がりを実感できる。今回確かに、モスクワとロシア、そしてそこに住むロシア人を感じることが出来た。このような会議の最大の意義は研究の情報収集ではなく、様々な国の人と直接話をして沢山の友人を作ることである。幸いにも、この試みは大成功であったと思う。

 この小文は帰国のアエロフロート機中で書いている。このような文を書くのは初めてだが、記憶が鮮やかなうちに、貴重な体験を残すために書き始めた。半分(以上か)は単なる旅行記だが、サイエンスに携わる人、これから始める人に読んで頂いて何らかのメッセージとなれば幸いである。短くまとめようと思いながら書き始めたが、結構な量を書いてしまった。最後まで読まれた方にはご苦労様と言いたい。