オーストリアの冬

 2011年2月、真冬のオーストリアへと向かう。サービスの悪くなったエールフランスと惜別し、オーストリア航空の直行便にてウィーンに飛んでいる。パリ経由をやめたことで時間も早いし、荷物がなくなる心配もなく、きわめて快適だ(今のところは)。今回はオーストリアのほぼ中央に位置するPlanneralmという場所である小さなワークショップに参加する。ウィーン工科大学のシュバルツ教授(Wien2Kというバンド計算ソフトの開発により超有名なお方であり、もう70歳になられた)の主催で毎年開かれているワークショップの今回のテーマは「超伝導100年」である。1911年に発見された超伝導は今年でちょうど1世紀を迎えた。このワークショップ、どうも、オーストリアとその周辺の人達の親密な集まりらしく、長年続いているようだ。そのメンバーの一人がチューリッヒのバトログ教授(彼もオーストリア出身)であり、彼から以前に何回か誘われたがタイミングが合わず参加できなかった。昨年の夏にあったバトログ教授60歳のお祝いワークショップでシュバルツ教授からも誘われて是非参加せねばと思い、今回の旅とあいなりました。 

 さてさて、しかしながら、この会議、かなり変わっている。2月13日の日曜日から始まって金曜までの一週間、缶詰である。プログラムを見ると、午前中基調講演1時間が2つ、夜に招待講演やポスターがあるが、その間はぽっかりと空いている。何をするのか。もちろん、スキーをするのである。しかも、グラーツ大学のインストラクターが教えてくれるらしい。というわけで、遊びに行くようでちょっと気がとがめるが、もちろん、研究発表とサイエンティフィックな交流が主目的である。まあ見方によっては、午前、午後と研究会をやり、夜に飲み会をする代わりにより健康的にスキーをするのだと思えば、普通に研究会である。参加者の顔ぶれをみると結構有名な人が含まれているので、物理の議論も盛り上がるだろう。こんな優雅なワークショップを開けるのはヨーロッパの科学の懐の深さか。しかし、本当に優雅かどうかは行ってみないと分からない。あと4時間でこの飛行機は氷点下のウィーンに着く。それにしても、オーストリア航空のアテンダントさん、どうしてああも上から下まで真っ赤なのだろう。ちょっと気持ち悪いと感じるのは僕だけだろうか。

 2月11日金曜日、7年ぶりのウィーンは予想に反して暖かい雨であった。西駅近くのホテルに辿り着き、そのままぐっすり眠る。直行便は実に有り難い。翌日雨はあがったが、ぐっと気温が下がって冬らしい寒さの中を街へ出かける。午後にウィーン工科大学の教授に車で会場まで送ってもらうことになっており、それまでの時間を有効に使って久しぶりのウィーンを歩く。街のシンボルであるシュテファン寺院は改装中だったので、宮殿のSisi museumへ。かの有名な絶世の美女エリザベートの数奇な運命に心を揺さぶられる。美貌と才気にあふれた女王の華やかな生活と孤独の果てに暗殺されるまでの人生が見事に再現されていて、とても興味深い。最後に展示されていたのは彼女の胸に刺された鋭いやすりの凶器であり、なんともリアルであった。この暗殺によって彼女の栄光はすべての悪評を見事に消し去りSisi伝説となったのである。

 さらにベルベデーレ宮殿のオーストリアギャラリーに足を伸ばす。実は前回ここで対面したグスタフ・クリムトの絵に再会することが一番の楽しみであった。かの有名な女性や金ぴかの絵ではなく、ただの風景画である。巨大なカンバスにただ森と小さな粗末な小屋が描かれているだけの絵であったが、一目見て離れられなくなってしまった。なぜか分からないが、この絵を書いたクリムトの目と完全にシンクロしてしまい、初めて絵を見て感動したのである。しかし意気揚々と訪れたクリムトのギャラリーにはなぜかこの絵が見あたらない。何度も探しまわったのであるがどこにもない。係の人に聞くが要領を得ず、3人目の人から恐ろしい事実を聞かされる。数年前、アメリカのユダヤ人が5点のクリムトの絵の所有権を主張し、持ち去ったというのである。恐らくその中の一点がかの絵である可能性が高いと。なんだ、それは。おまけに個人所有になって、公開される可能性はほとんどないという。もうお目にかかれない。失望である。泣きたいくらい悲しくなって、美術館を後にした。

 途方に暮れて街のメインストリートを歩いて行くと、Italicsという名のレストランの看板が目に付き、ここだという神の声が聞こえる。好みの味に完璧にマッチした料理が出てきてクリムトショックから、あっさりと立ち直る。コペルトのパンもアンティパストの盛り合わせもトマトスープもトリュフのリゾットも白ワインも、すべてすばらしい。生きていてよかったと感じるこの一瞬である。帰りの最後の晩にも是非また来よう。

 なんて関係のない話が続いたが、車に乗せてもらって3時間のドライブの末、真夜中に無事Planneralmに辿り着いた。恐れていたように、きわめて質素なロッジの狭い部屋にドイツ人と二人で押し込められる。しかし、まあスキー場では仕方がない。相棒はユーリッヒから来た人でなかなかいい人である。これからまる1週間よろしく。何人かの知り合いと再会を喜び、ベッドに入るが、はっきり言って、狭くて寝心地は最悪。こんなに小さいベッドで大男達はどうやって寝るのだろう。

 翌日の日曜の朝9時から会議が始まる。主催者のシュヴァルツ教授の挨拶から始まり、バトログさんが「超伝導100年」というレビューをし、その後に「ラットリング誘起超伝導」の話をした。バトログの奥さんの話によると、彼は丸3日かけて、さらにここに来る車の中でもずっと準備をしていたそうで、さすがに見事なレビューであった。やはり話の上手な人はそれなりの努力をしているのである。私のはちょっと手抜きであったが、まあ、例によっていい加減なジョークでごまかしながら無事お役目を果たしました。

 会議の風景、ちゃんと物理している

 午後は悪天候の中2時間のスキー講習を受ける。といっても、猛スピードでカッとんで行くインストラクターの後をみんなで追いかけるだけ。会話はドイツ語で分からん。6時から夕食、7時から再びセミナーが始まり9時に終わるという、結構ハードなスケジュール。これが金曜まで続くのかと思うと、うーむ。もちろん日本人は1人だし、ドイツ語ばかり。みんな英語を完璧に話すがそれでも数人が集まればドイツ語である。あーしんど。

 月曜、火曜と天気は快晴となる。例年に比べて雪が少ないらしく、ゲレンデ外を滑るのは難しいが、ゲレンデはすいている。まあ、チェアリフトが2本にTバーリフトが3本しかないのだから、当たり前かもしれないが。それでも立派なスキー場であり、午後の3時間を滑るには十分。スキー講習も本格的になってきて、ジャンプ用の大きなこぶを飛び越えたり、片足スキーをやらされたりと面白くなってきた。一度だけ、インストラクターの背後にくっついて滑ったが、見事なカービングに感動しました。ちょっとやそっとではまねのできそうにない、次元の違う滑りを見せてもらった。ちなみにスキー講習に参加しない人は日本のがんじきみたいなシューズを借りて山歩きに出かけたり、歩くスキーを楽しんだり、同室のドイツ人はガイド付きのかなりハードな山登りに行ったりしている。このヒュッテのスタッフがいろいろとサービスで面倒をみてくれるようで実にありがたいシステムだ。スキーインストラクターはグラーツ大学の体育科の先生である。ちなみにスタッフは大学から給料をもらっているが、最後に全員から10ユーロを集めてお礼としました。

 会議の方もシニアな人による講義と若い人の元気な発表に沢山の質問が飛び交い、盛り上がってきました。学生が質問をすると飲み物券をもらえるという粋な計らいのお陰もあって、活発な議論となる。こっちは皆さんの英語力について行けなくて、なかなか参加できないけど、ちょこっとチャチャを入れるぐらいでなんとか。昼間のフリータイムのおかげでみんなが打ち解けてとてもいい雰囲気の中で会議が進んでいく。実にすばらしい。このような会議を日本でも開けないものだろうか。もちろん施設の問題があるので同じにはいかないが、通常の2泊3日とかではなく、もっと長い期間に集まってリラックスした雰囲気の中でphysicsとphysical exerciseを行うことは大変有意義であろう。来年の課題としよう。

 ヒュッテに缶詰なので食事はみんなでヒュッテの食堂に集まってすることになる。意外なことに結構美味しい。ランチの時に翌日のランチとディナーの選択をする。いつも、肉と野菜の2種類があり、常にセルフのサラダバーがあるのは有り難い。一度だけ、伝統的な甘いディナーなるものを注文してみたら、甘いソースに浸されたパンみたいなものが出てきてかなり驚いた。しかし、ディナーの最後に出るデザートは甘すぎず大変美味しい。さすがに甘い物好きの国だ。ちなみにコックのおじさん、太い丸太のような体格で真っ赤なエプロンをして貫禄である。

 シュバルツ教授夫妻にシェフといっしょに

 今回の会議に出席したお陰で実に沢山の人と知り合いになりました。中でもハノーバーのフランツさんはオーストリア人でありながら、なんと合気道の黒帯で超日本通の面白い人です。国技館でパフォーマンスをしたことがあると言うから本物である。驚いたことに、火星にメスバウアー装置を飛ばして鉄化合物の分析をしているらしい。彼が見つけた鉄のジャロサイトという鉱物は水があってはじめて生成するものなので、火星にかつて水があった証拠になったとか。ジャロサイトはわれわれの業界では有名なカゴメ物質でもある。フランツさん、実にユニークである。

 会議は金曜の夜に終わり、土曜にウィーンに戻って、日曜の昼の便で帰国予定。以下、土曜日の午後。レオポルド美術館にて再びクリムトとシーレの絵に感動した後、予定通り1週間前に訪れたイタリアレストラン「Italics」にてディナーを食べている。1週間前と同じく、ダンディーなおじさんが、ようこそ再びと言って迎えてくれた。前回と同じ前菜の盛り合わせを食べる前に、リンゴとセロリのクリームスープ+カルバドスを食す。僕の唯一嫌いな野菜がセロリなのだが、敢えて注文したこのスープはほとんど感動的に美味しかった。微妙な味が混ざり合って見事なハーモニーを奏でる。メイン、というか、メインは頼まないのでパスタかリゾットとなるが、今回はシンプルにペンネのアラビアータを頼む。3年半前にベニスで死にかけて以来、美味しいトマトソースを食べると涙が止まらなくなるという変な癖が付いて、今回も見事に泣いてしまいました。ちょっと薄暗い窓際の席(前回と同じく、出窓風になっている落ち着いた席)で、ペンネを食べながら泣いている50男なんて気持ち悪いね。でも余計なお世話だ。しかし、ここのシェフ、なんて優秀なのだろう。例によってイタリアで修行したオーストリア人だそうです。ぼくのイタリアでの運が悪いだけかもしれないが、イタリアで食べるよりイタリアの外で食べるイタリア料理の方が遙かに美味しく感じるのは気のせいだろうか。多分、薄味で微妙なバランスを好むからだろう。今回はディナーなので白ワイン2種類と赤1種類を飲んで酔っぱらったが、オーストリアワインもなかなかのものだ。また近いうちに必ず戻ってくるぞと誓いながらダンディーと堅く握手して店を後にしたのでした。

 イタリアレストラン「Italics」にて

 今にも雨の降り出しそうなどんよりした空を眺めながら、ウィーン空港を後にする。あっという間の1週間であった。最初は戸惑ったが、だんだん慣れてきて最後は結構楽しむことができた。招待してくれたシュバルツ教授とバトログさんに感謝である。唯一のアジア人を温かく迎えてくれたオーストリアの人達にもありがとうと言いたい。今回、日本?オーストリア外交に役立つことがあったとしたら、日本人はジャンプだけでなくちゃんと曲がれるぞということをわずかのオーストリア人に認識させたことだろうか。月曜の朝に成田に着き、その日に1人、翌日に1人外国人のお客を迎える予定。その他にもいらっしゃる大先生がいて、帰国早々大変なスケジュールをこなさねばならない。さあ、現実へと戻るためにウィーンよ、さらば。

2011年2月20日 ウィーン空港にて

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