Research
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カミは地球を救う⁉
物質設計評価施設 広井善二
最近,少し変わった研究分野に片足を突っ込んでいる.2020年12月末に出された東大のプレスリリースをご覧いただきたい[1](この文章を読んでいただけるならそれで十分です).これまで物性物理学的に面白い物質を探し求めてきたが,もちろんそういう物は世間の役に立たない場合が多い(というか,ほとんど実社会に貢献するものではない).定年退職まであと5年となった身の上としては,生きているうちに少しでも人様の役に立つ研究をしたいと思って,しかし,こうなったわけではない.2019年末,新型コロナウィルスが武漢で拡がり始めたころ,当時ご退職寸前であった中性子科学研究施設の柴山充弘先生から,超越化研という会社の岩宮陽子さんと高エネルギー加速器研究機構名誉教授の川合將義先生を紹介された.そこで初めて「超越コーティング」という技術の話を伺った.正直言って第一印象は「何と胡散臭いことか」であった.普通の紙に怪しげなコーティング液を塗ると強度が増して水をはじくようになり,プラスチックの代用品に使えるというのである.もちろん,プラスチックゴミ問題が世間を騒がせていることは知っていたし,生分解性プラスチックや環境に優しい材料に多くの関心が集まっていることもあり,「素晴らしい,これ(紙)で地球は救われる」と素直に思った.しかし,ではなぜ,こんな画期的な技術がこれまで世間に広く認知されずにきたのかという疑問がふつふつと湧いてくる.ちなみに,岩宮さんは20年近くこの研究をやってこられ,限定的ではあるがすでにさまざまな応用にも使われている.何しろ専門外の目ではその研究分野における位置付けと価値を正しく評価することは困難であり,むしろそういうことを教えてほしいと思ったが,これを理解するには長い時間がかかった(実は今でも根っこのところは理解できていない気がする).
岩宮さんは1990年代から女性起業家の草分けとして活躍され,2001年文部科学大臣賞(科学技術功績者),2003年第二回日本環境経営大賞「独創的環境プロジェクト賞」,2004年世界優秀女性起業家賞,2008年特許庁長官賞など数多くの賞を受賞されている.2012年に超越化研を立ち上げ,この超越コーティングに関する研究開発を推進してこられた.岩宮さんはいわば天才肌の人であり,優れた直感力とパワフルな行動力を駆使して研究に邁進してこられたが,このタイプの人の多くは他人に伝えるために「通訳」を必要とする.川合先生は高エネ研をご退職後,岩宮さんの研究に触れて同調され,強力にサポートしてこられたのである.お二人の話を聞いてだんだんと分かってきたことは,やろうとしていることやその解釈はほぼ正しいのであるが,科学的な裏付けにいささか問題があるということであった.というわけで,前置きがとても長くなったが,柴山先生と私の出番と相成った次第である(柴山先生はさっさと東海に行ってしまわれたが).
古来さまざまな用途に用いられてきた紙は,草や木から作られるセルロース繊維からなる環境に優しい材料である.しかしながら,特に水に弱いという欠点をもつためプラスチックの代用品にはなりにくい.この欠点を補うため,さまざまなコーティング技術が開発されてきたが,従来のコーティング剤には環境に有害な物質が含まれていたり,また,大きな設備投資を含むコストの増大が問題となっていた.超越コーティング技術はゾルゲル法の応用であり,ケイ素の有機物であるメチルトリメトキシシランを主成分とし,少量のチタンテトラプロポキシドなどを反応促進剤として含む低粘性のコーティング液剤を用いる(私はゾルゲル法など使ったこともなく,この手の有機物質名を聞くだけで鳥肌の立つ「無機」人間である).普通のコピー紙や和紙をコーティング液剤に浸した後に常温で30分程度乾燥するだけの簡単な方法によって,紙を構成する複雑に絡み合った,数十ミクロン径のセルロースファイバー表面に,3ミクロン程度の厚さをもつシリカ層(より正確には,メチル基などの有機基を含むシリコーン層)が均一に形成される(図1).この反応は図2に示すように,紙に吸着された僅かな水や大気中の水蒸気を用いて,チタンテトラプロポキシドの助けにより自発的に素早く進行するため,反応中に紙が劣化することはない.ちなみに通常のゾルゲル法ではケイ素アルコキシドの加水分解反応を促進するために多量の水と酸または塩基触媒が必要となり,紙のコーティングには使えない.
形成されたシリカ層は強固なSi—O—Siのシロキサン結合からなるネットワークを有し,セルロースファイバーに強く化学結合するため紙の機械的強度が増大する.一方,そのシロキサンネットワーク中には比較的大きなナノサイズの隙間が存在するため構造変形が容易に起こり,紙本来の柔軟さは損なわれない.また,シリカ皮膜は無色透明であり(図3a),コーティング紙はもとの風合いを保つ(図3b).さらに,シロキサンネットワーク中には多くのメチル基が残されるため,コーティング紙は撥水性を獲得する(図3c).コーティングされた紙ストローは3日間水に浸けても全く形状および強度に変化は見られなかった(図3d).本コーティング液剤は環境汚染の原因となる物質を含まず,コーティング紙は廃棄後に自然環境において無害な物質に分解されると予想される.
以上のように,超越コーティングは紙素材の環境適合性を損なわずに強度と撥水性などを付与する優れたコーティング技術である.超越コート紙はさまざまな用途においてプラスチック材料を置き換えることができるだろう.生活素材から工業製品,水に強い段ボール紙,焼却可能なマルチシートなどの農業分野,廃棄可能なシャーレなどの医療分野を含むさまざまな分野に有用である.また,単純な浸漬法だけでなく簡便な塗布法やプリント技術が使えることから低コストであり,紙素材だけでなく紙製品においてもその形状を損なうことなく塗工処理できる.さらに,超越コーティングを木材に適用すると良好な耐候性を示し,繊維にも応用が可能である.また,コーティング皮膜には多くのナノ空隙が含まれるため,そこに触媒や化学物質を添加することができ,基材の特性を損なわずに用途に応じてさまざまな機能性をもたせることも可能となる.超越コーティング技術応用の拡大により,少しでもプラスチックの使用が抑制され,持続可能な社会実現に向けて一歩前進することを期待する.
というような内容をまとめた論文が米国化学会の雑誌Industrial & Engineering Chemistry Researchに掲載された[2].正直言って,ど素人がこのような論文を書くには大きな抵抗があったが,岩宮さんや川合さん,柴山さん,浜根さんのバックアップのお陰でなんとか形にすることができた.当初,科学研究としてのレベルの低さ(素人だから大目に見てください)と社会的なインパクトへの期待(皆さん,超越コーティング紙ストローを使いましょう)から,専門誌ではなく「宣伝誌」のNatureやScience向きではないかと思ったが,それらの系列雑誌も含めて全てエディターの壁を越えられず撃沈した.さらにJournal of American Chemical Societyにも門前払いをくらい,その編集者からこの聞いたこともないが内容的にはフィットする雑誌を紹介されたのである.しかしながら,超越コーティングを科学論文として世に出すという最低限の目標はとにかくクリアできた.お陰様でプレスリリースもさせていただき,現在,いくつかの問い合わせを受けている.ただ,思ったほど社会の反響が大きくないのが少々残念だが.
最後にもう一言.この研究を通して実感したことは,岩宮さんのサポーターの多さである.知り合った人々は彼女の人柄と才能,行動力に惹かれ,彼女の研究がうまくいくことを心から願っている.今回のプレスリリースをご覧になったお一人から,「ようやく彼女の成果が科学的な裏付けを得て日の目を見ましたね」とお言葉を頂いた.私も今ではサポーターの一人であり,今回このような機会においてお手伝いをさせていただくことができ有り難く思っている.岩宮さんの益々のご活躍と社会へのご貢献を心から応援している.
[1] http://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/news2.html?pid=12021
[2] Y. Iwamiya, M. Kawai, D. Nishio-Hamane, M. Shibayama, Z. Hiroi, Modern Alchemy: Making “Plastics” from Paper. Industrial & Engineering Chemistry Research 60, 355-360 (2021).
図1 超越コーティングを施した紙の走査電子顕微鏡写真(上)と写真中の黄色線に沿う化学組成の線分析結果(下).物質設計評価施設電子顕微鏡室の技術専門職員である浜根大輔氏による.数十µm径のセルロースファイバーの表面に約3 µm厚のシリカ層(微量のチタンを含む)が形成されていることが分かる.
図3 (a) コーティング液を固化して作製したバルク体.(b) 超越コーティングを施した紙製品.(c) コーティング紙上に滴下された水滴.(d) コーティングあり(左),なし(右)の紙ストローを水に浸してから3日後の様子.
2021/03/08