国際会議の四方山話
国際会議の四方山話
今回は思いっきり古い英国の2つの大学を廻る1週間の旅である。最初はケンブリッジ大学、次にオックスフォード大学。ともに800年以上も前に設立された世界屈指の大学である。ちなみに東大の歴史はせいぜい150年だ。12世紀の始めにオックスフォード大学ができ、そこでの古いしきたり(昔の学問は神学だった)を嫌った人々がケンブリッジに移ったらしい。今でもその雰囲気はある程度受け継がれていて、オックスフォードは人文科学分野において有名であり多くの首相を輩出しているのに対し、ケンブリッジは自然科学発展の輝かしい歴史と80名を超えるノーベル賞受賞者を誇る。特に近代物理学を切り開いてきたのはケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所であり、J.J.トムソンによる電子の発見、ジェームズ・チャドウィックによる中性子の発見から、かの少々ややこしい二重らせんの発見まで輝かしいものがある。今回のワークショップ「Advanced Working Group on Itinerant Frustration」を主催した若き理論家はキャベンディッシュに所属し、スピンアイスのモノポール描像で有名になった人。会議の詳細は後に。ついでに以前から行ってみたいと思っていたオックスフォード大学の固体化学研究グループを訪ねることになった。
2015年7月18日土曜の朝、暑い日本を脱出した。講義の最終回も終り、iMacのご臨終も乗り越えて飛行機に乗ってしまえばこっちのものである。ただし、2つの講演の準備が今一であり、出発直前までMacBookAirとにらめっこだった。特に最初のケンブリッジのワークショップは1時間トークに質問30分という恐ろしい設定になっていて、すごいプレッシャーを感じている。参加者は少人数で理論家が多く、偉い先生の名前もたくさんある。日本から一緒に参加することになったM氏も同じ長さの時間を貰ってしかも最初のスピーカー。M氏の言葉を借りるならば「未体験ゾーン」となる。理論家は議論が本職なのでいいが、私のような中途半端な実験家にはかなりきつい。というわけで、また外国に遊びに行ってるなと思われている諸妹諸兄に、人生は高いハードルを乗り越える程、後の楽しみが増すのである、と言いたい。たまたま同じ飛行機に乗り合わせたM氏と一緒にヒースロー空港からバスに乗り込み2時間熟睡の後、無事にケンブリッジに到着したのでありました。
ケンブリッジに来るのは3回目となる。一度は3年前の強相関電子系の会議。キングスカレッジの芝生の上で飲んだシャンパンの味は格別だった。初めてここを訪れたのはなんと25年前の1990年夏。英国南海岸沿いのブライトンであった低温物理の国際会議LT19の前にサテライトとして、ここケンブリッジのクイーンズカレッジにおいて高温超伝導のワークショップが行われた。当時、30歳の駆け出しだった若者が右も左も分からないままやって来たのでした。強烈に覚えているのは基調講演をされたモット先生のことだ。1977年にノーベル物理学賞を貰われた偉大な先生であり、1954年から1971年までキャベンディッシュ研究所の第6代所長を努められた。登壇するモット先生を全員がスタンディングオベーションで迎える中、静かにお話をされていたのが印象的だった。しかし講演後の質疑応答では、質問者全員が、一緒の会議に出られるのは感激です、と言いながら厳しい質問をしていたなあ。中身はよく分からなかったけれど、なんとなく。その6年後にモット先生はこの世を去られた。あれから四半世紀が過ぎたかと思うと感無量。全く舞台は違うけれど、こうして声をかけてもらえるのは少しは評価される仕事ができたのかと自己満足と思い出に浸りながら古い大学の街に到着したのでありました。
今回のワークショップの会場はケンブリッジ大学で最も権威のある?トリニティーカレッジ。かのニュートンが教鞭をとった場所。ケム川の東に沿って、南からクイーンズ、キングス、トリニティーと大きなカレッジが建ち並ぶ。ちなみに小さなカレッジも含めると31もあるそうです。トリニティーカレッジの教会にはニュートンが賢そうな顔をして立っているし、レン図書館にはニュートンが直筆のチェックを入れたプリンキピアの初版本が展示されている。映画「炎のランナー」では、正午を告げる45秒の鐘が鳴り終わるまでに、写真の内庭を一周できるかが競われた。
ケンブリッジ大学トリニティカレッジの内庭
宿泊は川を隔てたトリニティーカレッジのドミトリー。学生寮といっても粗末ではなく、とても立派な建物が豊かな自然の中に建ち並んでいる。われわれが泊まったのは各階二部屋のモダンな建物で、部屋に挟まれたスペースにはオープンなキッチンがある。学生が3ヶ月間の夏休みの間、部屋を完全にクリーンアップして、そこを会議やサマースクールの参加者に貸し出すことにより大学がお金を儲ける。この期間に世界中から若者が集まってきて歴史や英語を学んだりするのである。実に合理的だ。
トリニティーカレッジのドミトリーとニュートンさん
月曜の朝、ケム川を渡ってトリニティーカレッジに向かう。会議の前に朝食があると言われ、会場に入るとそこはまさにハリポッターの世界(サイズはかなり小さいが)に驚かされる。教会のような巨大な空間にテーブルが並び、周りから肖像画の中の「動かない」教授達に見下ろされる。食事はもちろん典型的なイングリッシュブレックファースト。つまり、目玉焼き、ベーコン、ソーセージ、マッシュルームに豆、フライドポテトにクロワッサンとトースト、果物も一杯。もちろん全部いただくと重過ぎるのでほどほどに。この雰囲気に驚いてちょっと感動。しかし本当にびっくりしたのは会議の部屋だった。狭いサロン風の部屋で、ここの壁も巨大な肖像画に覆われている。コの字に置かれたテーブルの先に比較的小さなスクリーンが置かれていた。参加者は30人程度なのでまあ十分だが。このセットアップを見たトップバッターのM氏が動揺しているのが分かって思わず写真を撮ってしまったが、本人が嫌がるので門外不出となる。M氏の講演はさすがに見事なものだった(私の理解できる範囲内で)。私も午後一で話をしたけれど、いつになく緊張しました。こんな雰囲気の会議は初めてであり、実に得難い経験とあいなりました。その後も、さすが理論家が企画しただけのことはあって、議論の時間がたっぷりあり、いろいろな人と話ができて結構面白かった。大きな会議は味気無く、こういうこじんまりした会議が本当は大事な気がする。最初は悩んで断ろうかとも思ったけれど、素直に参加して良かったと思う。いつものように誘われるうちが華と思ってね。
トリニティカレッジの大ホールと会議が行われた部屋Old Combination Room
昼食も夕食も同じ場所でバイキングスタイルとなる。味はさておき、ここのカレッジのシステムについて少し聞いた話をしましょう。学生は全員ドミトリーに住んで、全食、この部屋で食べる。食事代は全部込み。よって、大学内には生協食堂的なものはない。フェローと呼ばれる教授達もここで一緒に食べることになっているが、実際は昼食のみで、たまにお客さんと夕食もという感じらしい。フェローのテーブルは正面の一段高い所にあってハイテーブルと呼ばれ、ちゃんと給仕がいるし、食事の中身も違うようだ。どのくらい違うのか聞いてみたが、そんなに違わないという返事が返ってきた。さて、本当のところは食べた人にしか分からない。25年前に聞いた話では、「学生は毎日、教授達がハイテーブルについて美味しいものを食べながら楽しそうに歓談するのを見て、このやろう、おれもあそこに這い上がってやるぞと頑張って勉強する」だった。実際にそうなってハイテーブルで食事をした若き教授はなんだこんなものだったのかと思うのでしょうか。まあ、人生なんて大抵そんなものですが。さて、ここでの生活はカレッジ単位で、教育はユニバーシティで行われる。ユニバーシティで教育を行う教授をフェローと呼ぶ。トリニティーカレッジの中庭の芝生を横切って歩いていいのはフェローだけであり、学生には許されないらしい(本当かな?)。後でオックスフォード大学で聞いた話だが、教員の公募は大学とカレッジから出されて、つまり、どのカレッジに属するかはそこで決まっていて、給料も両者から出る。といっても2倍貰えるわけではない。結果として、同じ研究科に異なるカレッジの教授が混在するというややこしいことになる。しかし、逆に言えば、異なる研究分野の教授が同じカレッジに集うことになる。このシステムは異分野交流という意味では面白いかもしれない。大昔、学問の分化がそれほど進んでいない頃、ハイテーブルにおける教授達の会話から新たな知が生み出されていったものと想像する。おそらく、ケンブリッジ大学のシステムも似たようなものだろう。基本的にカレッジは昔から土地や資産を持っていて金持ちであり、大学がそれを束ねているのである。詳細は私の理解を超えるが、まあそんなものでしょう。
火曜は1日会議に集中し、夜は「WASABI」というお店の寿司パックとビールを買って帰っり宿舎にて軽く息抜き(翌日のオックスフォード行きバスの中でも食べたが、この寿司は悪くない)。会議は水曜の昼に無事終り、皆さんに別れを告げ、午後にキャベンディッシュ研究所を訪問する機会を得た。街中から20分程歩いて住宅地を抜けると見渡す限り広大な原野が拡がり、研究所に辿り着く。ラザフォード、ブラッグにモットの名前が付けられたビルや通りを見てウキウキ。案内されたギャラリーは感動ものであり、偉人達が用いた実験装置に思わず目を奪われた。特に結晶によるX線の回折現象を発見したブラッグが用いた回折計や実際に使った結晶の標本には驚かされた。実によい思い出となりました。感謝。
9名のノーベル賞受賞者を含む1932年の写真とブラッグがX線回折実験に用いた結晶たち
その後、ケンブリッジ最後の夜を満喫しようとM氏と街へ繰り出す。毎日ビールばかり飲んでいたので美味しいワインを求めてとある場所(Cambridge Wine Merchants)へ。ローカルな人々に紛れて、絶品のサーモンやチーズをつまみながら、白、赤、スイートワインにモルトウイスキーまで楽しんで酔っぱらい、素晴らしい一時を過ごしました。会議で頑張ったご褒美だね。Mさん、一緒に楽しんでくれて感謝です。また、どこかでご一緒しましょう。
翌日、バスで1人オックスフォードへ向かう。M氏は帰国。バスはあっちこっちに寄りながら4時間近くかかってオックスフォードに到着した。街中に出るとものすごい人並みに唖然とする。なんと観光客の多いことか。ケンブリッジもそれなりに多かったけれど、この混みようは尋常ではない。フランスからの修学旅行?の子供達と中国からの観光客で溢れている。予約してもらったExeter collegeをようやく探し当て(入り口に看板を掲げて欲しい)、疲れ果てて部屋に。ここ、街のほぼ中心にあり、見事に中世の雰囲気漂うカレッジで、ちょっと感動もの。部屋は質素だけどやたら広くておまけに4隅にドアがあり(1つは入り口)、1つはバス、シャワーに(こいつは狭くてお湯の出が悪い)、1つはシングルベッドのある小部屋に、もう1つは使い途不明。さらにアップライトピアノまである(私には無用の長物)。窓から見下ろす正方形の中庭の一方には素晴らしいモザイク画とタペストリーで飾られた大きな教会、反対側には大ホールがある。朝食はもちろんそこで。ケンブリッジのトリニティーに引けを取らない内装だったけれど、食事はちょっと劣るかな。温かいものがないので。ケンブリッジでは会議のために準備してくれていたけど、こちらではそれがなかった。ちなみにカレッジの専用パブもセメスター期間以外はお休みで残念。夕食に近くのWagamamaとかいう日本ぽいヌードル中心のレストランに行ってみる。最近ロンドンでは日本のちゃんとしたラーメン屋がオープンして人気だと聞いていたので、ここで「わがままラーメン」なるものを食べてみたが、不可思議な麺が口に合わず、半分食べて諦めた。ビールと込みで3200円もするのに。でも、店は人で一杯でした。円の弱さのせいで物価の高さが身にしみる。
エクセターカレッジの教会と中庭
翌日、久しぶりの雨の朝、Simon Clarkeさんが迎えに来てくれてオックスフォード大学の化学に赴く。彼はこのエクセターカレッジに所属する。エクセターカレッジは700年前に創立され、現在340名の学部生と200名の大学院生がここで学んでいる。ケンブリッジの所で書いたように、彼の場合はオックスフォードユニヴァーシティとエクセターカレッジから給料を貰っているそうだ。15分程歩くとオックスフォード大学の化学研究棟に到着。そこもほとんど街の中。辺鄙な柏にいる者としては実に羨ましい。彼の最近の研究を説明してもらい(きちんとした質の高い固体化学をやっていて感心)、古い建物とモダンな研究施設を見学してから、最近お気に入りのVO2に関する1時間のセミナーをする。休みの割には大勢が聴きに来てくれて、質問も一杯出て結構気に入ってもらったようで来た甲斐がありました。
ここオックスフォード大学の無機化学は偉大な歴史を有する(実は勉強不足でこちらに来て初めて認識したのだが)。ロザリー・ホジキンは、X線回折を用いてインスリン、ペニシリン、ビタミンB12の構造決定を行い、1964年にノーベル化学賞を受賞した女性である。彼女の教え子にはかのマーガレット・サッチャーがいる。私の敬愛するジョン・B・グッドイナフ大先生はここで1975-1988年の13年間教壇に立ち、リチウムイオン電池の陽極材料となるLixCoO2の研究を開始した。現在のリチウムイオン電池の重要性を考えると、ノーベル賞を貰ってもおかしくない優れた業績であるが、残念ながら未だにその話はない。私がセミナーを行った場所は、The Abbot's Kitchenと呼ばれる八角形のキューポラのような不思議な建物で、おそらくここで先生もお話をされたことだろう。グッドイナフ先生がここオックスフォードで固体化学の基礎を築いたのかと思うと感無量である。
昼はオックスフォード化学の大御所の先生が美味しいフレンチレストランに連れて行ってくれる。サイエンスから料理まで幅広い会話を楽しむ。午後には別の教授グループと古そうなホテルでアフタヌーンティーに行き、美味しいスコーンとたっぷりの紅茶を楽しむ。25年前にロンドンのハイドパークホテルで大汗をかきながら(猛暑にぶ厚いジャケットを借りさせられたので)初めてのアフタヌーンティーに挑戦したのを懐かしく思い出す。その後、本降りとなった雨の中をエクセターカレッジに戻った。皆さん、お忙しかったようで夜は1人となったが、疲れていたので逆に有り難く、ネットで調べたタイレストランAt Thaiで定番のトムヤムクンとパイナップル入り焼ご飯を美味しく頂きました。
さて、全ての用事が済んで今日土曜日に帰国する。が、午後2時の空港行きバスまで時間があるので少し観光の真似事をしましょう。雨もすっかり上がってよいお天気だが、気温は20℃をかなり下回っていて半袖では寒い。取り敢えず街を一望できるユニヴァーシティの教会であるセントメアリー教会の塔に登る。時間になっても開かない門の前で10分待ち、すごく狭いらせん階段をひたすら登って辿り着いた塔の上部はすれ違い困難なほど狭い雨ざらしの通路が塔を回っており、そこからオックスフォードの全景が眺められる。とてもいい。たくさんのカレッジと広々とした中庭、その教会を眺める。オックスフォードは本当に大学の街なのである。さて、驚いたことに塔の周りを一周することはできず帰りは全員が後戻りすることに。なるほど、それで人数制限をしているのかと納得。他の塔は人でごった返しているのにここは比較的空いているのも納得。団体には入場不可能だ。その後、屋根付きマーケット(Covered Market)のケーキ屋さんでフルーツケーキ(これは好評だった)、紅茶屋さんでアールグレーを山盛り買って土産とする。さらにアシュモリアン博物館を過ぎて北に歩いて行くと、昨日のお昼に連れてきてもらったフレンチレストランに偶然辿り着いた。Little Clarendon StreetにあるPierre Victoire。これは神のお告げと迷わずランチに入る。しばらくすると突然雨が降ってきた。狐の嫁入だが、1時間ゆっくりランチを楽しんで帰る頃には晴れてきた。今日はついてるかも。選んだのは野菜の南フランス風スープ、slow-roasted duck leg served on a potato with raspberry sauceにパンナコッタとコーヒー、もちろん赤ワインも。特に鴨は完璧で大満足。これで3200円は安い。コーヒー代が入ってなかったような気もするが、まあ、サービスしてくれたのでしょう。皆さん、オックスフォードに行く機会があれば是非お薦めです。
セントメアリー教会の塔から眺めるオックスフォードの古き街並み
この文章、帰路でほとんどを書き上げました。久しぶりに面白い旅だったのですらすらと。とにかく涼しくて、オックスフォードの金曜以外はすべて晴れと天候にも恵まれ、トラブルもなく順調で快適な旅だった。いつもこうならいいのだが。戻ってきた日本は暑いの一言。今日の都内は36℃もある。ありえない。でも、現実と違う所に行くから旅には意義がある。帰って来る場所があるから旅と言えるのである。じゃ、また。Z
古き英国、ケンブリッジとオックスフォードを巡る
2015年7月26日日曜日